日本財団 図書館


 

そこで、みなさんに考えてほしいのは、最初の衝撃的なイメージをどう変えたらいいのかということです。患者さんの体つきを見ても、心の中を去来しているものはわかります。医師とナースは患者さんをサポートしていますが、悪いニュースを伝えたこの患者には情報が必要です。真実を必要としています。体つきを見ると、真実と思われるものを聞いたその結果という体のこわばりが見えます。B.Kastenbaumさんが昨日いわれましたが、本人の体にがんがあるかどうかを患者に伝えるのだ、だから医師がいわなくても、自分の体から患者はおのずとわかってしまうということなのです。
2番目に俳優の志村喬演ずる渡辺さんががんになったのは目覚めであったと昨日、私は話しました。いままで意味のない生活をしていた。そこで目が覚めて、とにかく死ぬギリギリまで一生懸命生きようという決意をするという話もしました。そこで、心の中で安らぎ、過去と未来が和解をしたような感じになって、彼はそこで心の安らぎを覚えるわけです。B.Kastenbaumさんのゴール達成という意味では、映画の渡辺さんのゴールは達成されているわけです。診断を受けたその時にはヘルスケアシステムの中にいるのですが、そのあとはヘルスケアシステムから出てしまうのです。
アメリカにもいろいろの文化がありますから、どういう形で病名を宣告するかということは複雑な問題です。すべて真実をいいわたすことがいいのかどうか、それから真実というのは武器に使われるということもあります。いまの段階では、少なくともアメリカの医師は告訴されるのが恐ろしいので、情報を伝えすぎてしまう傾向にあります。不必要な情報や患者さんがわからないことでも全部話してしまう。患者さんが聞きたいこと、ほしい情報という範囲の中で医学的な情報を出せばよいのですから、一緒に自分の経験を共有してくれる人がいるところ、診断を受けたときから助産婦的な役割をやっていくということです。ナースは精神的な意味での助産婦という役割をしているのではないかと思うのです。死に直面するのを助けながら、死に至るところまで支えていく。まさに出産に立ち合う助産婦と同じ働きが期待されます。
この絵(略)は2人の医師に支えられて、病院をあとにする場面ですが、これももう一つの危機かもしれません。だれかと一緒に座って話し合うゆとり、患者さん自身が自分の立場をしっかりと自分自身で受け止めることができるゆとり、そしてそれを支える人が周りにいるということです。自分のおかれている立場を受け止めて、それを乗り越えることができるようにする。この2人が患者さんを挟んで患者さんを放棄してしまっているわけではない。その患者さんの宗教というバックの中で支えているわけです。

 

死のその時まで積極的かつ快適なケアを

診断から死にいたるまでのQOLというのは視野を広げるということに尽きるのではないかと思います。伝統的なホスピスのケアから人生の終わりまで広げて考えるということはなぐさめ、患者の自立を助けるということだと思います。それから患者が亡くなったあとの遺族を支えていくこともあります。病気の各段階で考えると、アグレッシブな治療からなぐさめのケアに移るということには必ずしもならないのです。症状緩和という意味ではアグレッシブな快適なケアというものも死の直前まであるわけですから、アグレッシブな医療ケアから快適なケアにいくというよりは、ある意味でのアグレッシブな快適なケアというのは最後の時までしていく必要があると思います。
つまり、ナースとしては希望を失ってはならない、希望をもっということもひとつの生き方なのですから。希望を失うというのは感染していきます。ナースから患者へ感染していくのは失望であってはならないのです。ナース自身が鏡になって患者の希望を写してあげることだと思うのです。そうすることによって患者とナースが一体となる。

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION